人間は「正しさ」を見極めることが出来るのか。大きく未来を予見する。
今回は書籍の感想というよりも、書籍の一節から考えたことを書いていきます。
以下のような本を読みました。
現代に生きるファシズム 佐藤優 片山杜秀 小学館新書
佐藤優は皆さんもご存知だと思うが、日本でも指折りの著名作家である。
元外務省官僚で鈴木宗男議員(元衆議院議員、現参議院議員)のロシア疑惑に絡ん
だ国策捜査で逮捕、拘留され有罪となり失職する。その後は作家として活躍してい
る。
自らの経験から書かれた「国家の罠:外務省のラスプーチンと呼ばれて」や「自壊
する帝国」が代表作。
一方、片山杜秀は政治学者で「未完のファシズム―「持たざる国」日本の運命」が
代表作。
本書は戦前の日本は第1次世界大戦の影響から全体主義国家を目指すが、「持たざ
る国」としての限界と徹底したファシズムには順応しない日本の国柄により、甚だ
不完全なファシズム体制しか構築することが出来ず、戦略的迷走状態で敗戦へとひ
た走ったと主張する。
本書は対談という軽い読み物であるが、気になる箇所があった。
片山によると東條英機は、甚だ、いい加減な全体主義体制しか構築できないで日本
を敗戦の悲劇へと導いた。その日本を仮に石原莞爾が率いていたなら、どうであっ
たかと片山は夢想する。
石原は将来の日米対決を見越した上で「持たざる国」日本は、先ずはアジアを出来
るだけ少ない労力で勢力下にいれることが必要と説いた。
第2次世界大戦は西洋文明と東洋文明の、それぞれの世界覇権への準決勝戦であり
ナチスドイツを破って決勝戦に駒を進めてくるアメリカと日本は東洋の覇者として
ぶつからなければならない。それが世界最終戦争だと石原は説いた。
「持たざる国」日本は、最小限の労力で中国を勢力圏に入れ、そこで十分、力を蓄
える必要がある。彼はそのビジョンに従って満州事変を行い、ほぼ無血で満州を日
本の勢力下に入れる。
その後の中国との泥沼の戦争は石原の全く意図としない軍部の暴走であった。恐ら
く当時の日本で最も先見の明があった軍人である。
その彼が日本を率いたなら、どうであったのかと夢想するのだ。
片山は大東亜戦争は起こらないで、日本の戦前の体勢は、より強力に維持され第2
次世界大戦を生きのびることが出来たであろうと想像する。そして、その結果、最
終的な対米決戦が何十年も後に実施され、日本は米国と核戦争になり、日本民族は
完膚なきまでに叩き潰されたであろうと想像するのだ。
結果としてみれば、東條英機は日本民族を滅亡から救ったベストオプションであっ
たのだと片山は論ずるのである。
私も、石橋湛山が日本を率いていたならば、どうであったのかと夢想してみた。石
橋の「小日本主義」は日本を戦争による利益確保ではなく、貿易による利益確保に
方向転換させたであろう。
それでも、このパラレルワールドの石橋の率いる日本では軍部は抑制されるかもし
れないが、財閥解体も皇室の解体も行われず、貧富の差が恐ろしく広がったフィリ
ピンのような国になっていたと想像される。
その姿は戦争による死者は発生しなかったかもしれないが、東條の率いた日本の結
末よりも優れていたなどと言えるであろうか。
愚かしい東條英機の日本。ガダルカナル玉砕もインパール作戦も神風特攻隊も結果
を判断する時間の長さを変えてみれば、ベストオプションであったということも言
えるのである。
これなどは、日本国民の利益という一つの価値基準からの判断であるから、まだ分
かりやすい。価値基準が複数あったり、異なったりする場合は、人間は「正しい」
ことを本当に見極めることが出来るのであろうか。
「正しい」ということは、複数の条件やルールの中で定義された枠の中での「正」
もしくは「否」を表すものに過ぎない。この条件やルールが変更されれば「正否」
も変わってくるのだ。ましてや価値判断の時間軸やイデオロギーが異なっている場
合は「正しさ」は複数存在してしまう。
例えば、価値判断のイデオロギーの中で「生命」と「自由」という二つの価値があ
る。そのどちらを大切だとする天秤の目盛りは人それぞれである。
昨今では新型コロナウイルスの感染拡大に伴って首都圏の首長が「家庭内でのマス
ク着用」を呼びかけている場合もある。
これに対して「生命」の価値は絶対だから家庭内という領域でも「自由」が侵害さ
れるのも当然だと思う人もいれば、家庭内の「自由」が阻害されるということは、
とんでもないことなので、そのために少しぐらい「生命」が奪われても仕方がない
という人もいる。この価値観に優劣はない。
「正しさ」は複雑な条件やルール、任意の価値判断の時間軸、そしてイデオロギー
によって、偶々、一時的に成立するだけのものである。だからこそ自分と異なる「
正しさ」というものに対して一方的にフェイクだとか愚かであるとか、断定するこ
とは間違っている。
全ての人間は自分が「正しい」と思う情報を集めるものである。それは「コロナは
風邪だ」と主張する者も「コロナは危険な病気だ」と主張する者も共に同じである。
自分が「正しい」と判断していることも、自分が「正しい」と判定している情報源
から得られた偏った土台からなされているものなのかもしれない。双方向から物事
を見たり、時間軸を長くとって観察したりすることで「正しい」判断をしているつ
もりでも、人間の能力は「正しさ」を捉えることが出来るのであろうか。
特に現在の情報化社会の中で圧倒的な量の情報に接している私達にとって「正しさ」
は非常に難しい問題となってくる。
こういったことを考えていると「正しい」ということは人間の脳内の運動に生じる
感覚に過ぎないのではないかと思ってしまう。ほとんどの人間は「正しさ」は神や
絶対的な存在に由来するものだと無条件に考えがちである。「正しさ」に対して真
正面から否定することがしづらいのは「正しさ」の正統性ゆえである。
「正義と悪」「神は正しきことをなす」「正義の鉄槌が下されんことを」
これらは全て「正しさ」が絶対的な価値を持つという考えを基にしている。だから
こそ多くの人々は「正しさ」を求め、「正しさ」がなされなければならないと考え
る。
もしかしたら「正しさ」は人間の勘違いなのではないか。「正しさ」の重要な要素
である論理的な思考も人間という生物に特有の脳活動の一種だとしたらどうであろ
う。
近代社会は「神」を否定して「理性」を「神」の代わりに神殿に据えてきた。「神」
は人間によって作られたものだと「理性」によって判断したのだ。しかし「神」に
取って代ったはずの「理性」も人間の脳活動の一種に過ぎないとしたらどうであろ
う。
私達は将来、ソクラテスの「無知の知」に一周回ってぶち当たるのである。
科学の知見や技術を進歩させてきたつもりでも、我らはソクラテスや釈迦の達した
境地から一歩も出てはいない。
今、世界を覆っている閉塞感の根源には、今までの「神」である「理性」が絶対的
存在から人間的存在へと降りてきていることにある。「天皇の人間宣言」ではなく
「理性の人間宣言」が、これから私達の眼前になされるのであろう。
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